能登半島地震は2月1日で発生から1カ月となった。31日時点で1万4643人が避難生活を送り、うち9557人(65%)が今も体育館や集会所といった1次避難所305カ所に身を寄せる。地元に戻れるめどは立たず、仕事や介護などの事情を抱えた被災者もおり、石川県が呼びかけている2次避難は進んでいない。
死者は238人(うち災害関連死15人)となり、県はこれまでに計129人の氏名を公表。今後も遺族の同意を得られた場合は順次公表する。災害関連死は珠洲市と能登町が各6人、輪島市が3人。安否不明者は19人。
不安抱え避難続く
「福島のことが頭をよぎった」。能登半島地震で最大震度7を観測した志賀町には、北陸電力志賀原発が立地する。原発は停止中で安全を脅かす大きな被害はなかったものの、東京電力福島第1原発事故が発生した「3.11」を思い起こさせた。現地では今も、町民が原発に対する漠然とした不安を抱えたまま避難生活を続ける。
「まさか全町避難にならないよね」。志賀町福浦地区に住む松井恵子さん(70)は1カ月前の心境を吐露した。地震発生直後、必死の思いで避難所にたどり着き、震度7のすさまじい揺れと津波の恐怖から解き放たれると、原発の存在が気になった。避難所の旧福浦小(福浦公民館)は志賀原発から約1.5キロ。1日午後5時過ぎに入った「異常なし」の一報に、ほっと胸をなで下ろした。
松井さんは学生時代、原発建設を巡る市民運動なども目の当たりにしてきた。元教員で、約30年ほど前には旧福浦小の教壇にも立った。「校舎から原発が見えるのよ」。松井さんによると、当時は原発事故に備えた本格的な訓練を行っており、甲状腺被ばくを防ぐ安定ヨウ素剤を配布したり、バスで近隣市町村へ避難したりしたという。
その後、原発への意識は薄れつつあったが、東日本大震災を機に認識を改めた。「福島の人々はこの日常がなくなってしまったんだな」。原発の近くを通るたび、そんな思いが押し寄せた。
今回の地震では、志賀原発に重大事故があった際の避難ルート計11路線のうち、7路線で通行止めが発生した。「(もし事故があっても逃げ場がなく)ここにいるしかなかったね」。志賀原発の北東約6キロに位置する志賀町草木地区に住む坂本哲郎さん(80)はそうこぼした。
坂本さんは「避難所は気を使うから」と自宅前のビニールハウスで妻や近隣住民ら7人で生活。ハウス内にストーブを置き、木の板や畳、断熱材などを敷いた上で寝泊まりする。「原発は身近な存在」と坂本さん。断水と不安が解消されるまでハウス生活を続けるつもりだ。
地震発生時、1、2号機は運転停止中で、2号機は再稼働に向けて原子力規制委員会が審査中だった。「(再稼働に)賛成、反対って簡単に言えなくなった」と松井さん。同じ原発立地県の住民として、戸惑いが痛いほど伝わってきた。【福島民友新聞】