福島県の里山で、地元住民や林業関係者らが「阿武隈150年の山構想」を掲げ、最初の一歩、植林作業に踏み出した。一帯の森林や里山は2011年の東京電力福島第一原発事故により深刻な影響を受けている。未来の世代に向けて、豊かな山の自然や暮らしを手渡す試みが始まった。
オオモミジにコブシ、クロモジ、ヤマボウシ…。福島県の中通り地方、阿武隈山地に連なる田村市都路(みやこじ)町で四月中旬、木々の苗約九十本の植林が初めて行われた。地元を中心に県外からも集まった参加者約三十人に、主催団体「あぶくま山の暮らし研究所」代表で地元の森林組合作業員、青木一典さん(59)があいさつする。
「原発事故により、山の流れは変わった。山から恩恵を受けてきた人間が、何かこれからの方向を見つけようと、百五十年の山づくりを始めるに至った」
直前まで降っていた雨が上がり、参加者は早速シャベルで土を掘って苗を植え、しっかり根付くよう土や草で根元を覆って踏み固め、添え木に結び付けた。
団体が発足したのは昨年一月。山や地域のこれからを考えようと、それまでの森林組合を中心とした取り組みを引き継ぐ形で、住民や林業関係者のほか、森林や環境経済の研究者ら十人ほどが集まった。
都路町は面積の八割が森林。古くは木炭、昭和四十年代からはシイタケ栽培用原木の産地で、コナラやクヌギなどの広葉樹林が多い。だが事故で放射能に汚染され、原木の生産は停止。民家周辺以外の山は除染されず、住民は山菜やキノコ採り、魚釣りなどの楽しみからも遠ざけられた。
山と人の関係をどう築き直すのか、メンバーは話し合い、住民に聞き取りもしてきた。「誰にも答えは分からない。だからといって、やらなくていいという話にはならない。もがくしかない」と、事務局長の荒井夢子さん(35)は語る。
「百五十年」には、未来への期待と過去への反省の二つの意味を込めた。一つは、山を汚染している放射性物質セシウム137が百五十年後には数%に減ること。もう一つは戊辰戦争・明治維新から百五十年を迎えていること。
この間進められてきた開発や経済優先の考えによらず、自然や文化、歴史を基に地域の資源を生かしながら、住民と新しい山の暮らしを紡ぐ。それを将来の世代につなぐのが目標だ。
今回の植林は、地権者の松本博好さん(65)が「山は使ってもらうのが一番いい。そうでないと荒れてしまう」と賛同し実現した。人口は減り、耕作放棄地がやぶになりつつある中、これまでカエデを約二千本、土手などに一人で植えてきた青木さんは「木を植えて自然に返したい」と言う。
苗は、花や紅葉が美しい種以外にアロマや工芸に使われる種など実用性でも選んだ。山づくりの具体的な道筋を専門家にも学びながら毎年植林を続け、いずれは苗を自前で育てていく。住民と話をしながら山の暮らしも探りたいという。
さいたま市から植林に参加した六十代、塚田悦子さんは「諦めずに長いスパンで考えられれば希望になる」と応援する。植林作業を終えて、青木さんは「皆さんの温かい気持ちを一本一本に込めていただいた。いつか、こんなすてきな山ができたと思ってもらえる日がくれば」と願った。【東京新聞】