極秘裏に行われた「シミュレーション」
福島第一原発事故が発生した2011年3月11日から10年が経とうとしている。3つの原子炉が相次いでメルトダウン、原子炉や格納容器が納める原子炉建屋が次々に爆発するという未曾有の原発事故は、福島の地に大きな爪痕を残した。
事故によって放出された大量の放射性物質は福島の地を汚染し、原発周辺に住む住民は避難を余儀なくされた。いまなお双葉町、大熊町、浪江町の多くが、放射線量がきわめて高い帰宅困難区域に指定され、立ち入りが厳しく制限されている。長期にわたる避難で、故郷の地に戻ることを断念した住民も少なくない。
実は、事故発生直後に極秘裏に行われた「シミュレーション」によると、こうした帰宅困難区域は東日本全体に及ぶ可能性があった。当時の原子力委員会委員長の近藤駿介氏が行ったシミュレーションでは、最悪の場合、東日本全体がチェルノブイリ原発事故に匹敵するような大量な放射性物質に汚染され、原発から250キロメートル半径の住民が避難を強いられるという予測をしていた。
福島第一原発事故では、運転中の3つの原子炉が相次いでメルトダウンするという世界初の原発事故となった(©NHK)
なぜ、福島第一原発事故は、「東日本壊滅」という最悪シナリオを回避できたのか。
事故後、10年にわたって1500人以上の関係者や専門家を取材、事故を検証してきたNHKメルトダウン取材班は、『福島第一原発事故の「真実」』で、東日本壊滅が避けられたのは、いくつかの僥倖が重なった「偶然の産物」だったというショッキングな分析を明らかにした。
10年目の「真実」
あの事故で死を覚悟した時はあったのか。
この10年、事故対応にあたった幾人もの当事者にそう尋ねてきた。ほぼ例外なく「死ぬと思った」という答えが返ってきた。とりわけ事故4日目の3月14日、2号機が危機に陥った時「もう生きて帰れないと思った」と語る人が多かった。家族に宛てて書いたという遺書を見せてくれた人もいた。
このとき、冷却が途絶えた2号機は、何度試みてもベントができなくなり、なんとか原子炉を減圧したが、消防車の燃料切れで水を入れることができず、原子炉が空焚き状態になった。テレビ会議では、吉田所長や武藤副社長が血相をかえて「格納容器がぶっ壊れる」「とにかく水をいれろ」と怒鳴っている。
後に吉田所長は、「このまま水が入らないと核燃料が格納容器を突き破り、あたり一面に放射性物質がまき散らされ、東日本一帯が壊滅すると思った」と打ち明けている。吉田所長が語った「東日本壊滅」は、事故後、専門家によってシミュレーションが行われている。当時の菅総理大臣が近藤駿介原子力委員会委員長に事故が連鎖的に悪化すると最終的にどうなるかシミュレーションをしてほしいと依頼して作成された「最悪シナリオ」である。
そこに描かれていたのは、戦慄すべき日本の姿だった。
最悪の場合、福島第一原発事故から半径170キロメートルが強制移転の領域に、250キロメートルが希望者住民が移住を希望した場合には認めるべき汚染地域になると予測していた
最悪シナリオによると、もし1号機の原子炉か格納容器が水素爆発して、作業員が全員退避すると、原子炉への注水ができなくなり、格納容器が破損。2号機、3号機、さらに4号機の燃料プールの注水も連鎖してできなくなり、各号機の格納容器が破損。さらに燃料プールの核燃料もメルトダウンし、大量の放射性物質が放出される。
その結果、福島第一原発の半径170キロメートル圏内がチェルノブイリ事故の強制移住基準に達し、半径250キロメートル圏内が、住民が移住を希望した場合には認めるべき汚染地域になるとされている。半径250キロメートルとは、北は岩手県盛岡市、南は横浜市に至る。東京を含む東日本3000万人が退避を強いられ、これらの地域が自然放射線レベルに戻るには、数十年かかると予測されていた。
人間は核を制御できるのかという「根源的な問い」
この東日本壊滅の光景は、2号機危機の局面で、吉田所長だけでなく最前線にいたかなりの当事者の頭をよぎっている。しかし、2号機の格納容器は決定的には破壊されなかった。なぜ、破壊されなかったのか。そこに、決死の覚悟で行われたいくつかの対応策が何らかの形で貢献していたのだろうか。
私たち取材班は、この疑問にこだわって、事故から10年にわたって事故対応の検証取材を続けてきた。この謎を解き明かすことが、人間は核を制御できるのかというこの事故が突きつける根源的な問いの答えに近づけるのではないかと考えたからである。
なぜ、格納容器は破壊されなかったと思うか。免震棟にいた何人もの当事者にも聞いたが、明確な答えは返ってこなかった。原子炉が空焚きになって2時間後に始まった消防注水が奏功したのではないかと水を向けても、事故対応の検証に真摯に向き合っている当事者ほど「証拠がなく安易なことはいえない」と首を振った。
事故から10年。この謎を包んでいた厚いベールが剥がれ始めてきた。
廃炉作業が進むうちに原子炉や格納容器に溶け落ちた核燃料デブリの状態が垣間見えてきたからである。
ベントができず肝心なときに水が入らなかったため過酷な高温高圧状態だったと思われた2号機の原子炉や格納容器の中には、思いのほか溶け残っている金属が多く、予想に反して高温に達していなかったことがわかってきた。その理由は、皮肉にも肝心なときに水が入らなかったことではないかと研究者は指摘している。
そのとき最前線で起きていたこと
メルトダウンは、核燃料に含まれるジルコニウムという金属と水が高温下で化学反応を起こすことで促進される。消防車の燃料切れでしばらく水が入らなかった2号機は、水─ジルコニウム反応が鈍くなり、1号機や3号機に比べて原子炉温度が上昇せず、メルトダウンが抑制された可能性が出てきたのである。
さらに格納容器は破壊ぎりぎりの高圧になったが、上部の繫ぎ目や、配管との接続部分が高熱で溶けて隙間ができ、図らずも放射性物質が漏れ出ていたことも破壊を防いだ一因とみられている。
そして2号機は、電源喪失から3日間にわたってRCICと呼ばれる冷却装置で原子炉を冷やし続けていたため、核燃料のもつ熱量が、1号機や3号機に比べると小さくなり、メルトダウンを抑制させたのではないかと指摘する専門家もいる。こうした僥倖が複雑に折り重なって、格納容器は決定的に壊れなかった。
しかし、もしこの僥倖の何かが欠けていれば、果たしてどうなっていたか。吉田所長ら当事者の頭を「最悪シナリオ」がよぎった後、私たちの目の前に、事故後日本社会が積み上げてきた10年とまったく違った10年が広がっていたのかもしれない。
近藤駿介内閣府原子力委員会委員長が作成した「福島第一原子力発電所の不測事態シナリオの素描」で明らかになった、最悪シナリオ発生時における移住を迫られる地域。福島第一原発の半径170キロメートル圏内がチェルノブイリ事故の強制移住基準に相当すると試算。250キロメートル圏内を、住民が移住を希望した場合には認めるべき汚染地域とした。CG:DAN 杉本、カシミール3Dを用いて作製。高さは2倍に強調している
核の暴走に人間が向き合った最前線では、時に決死の覚悟と英知が最悪の事態からの脱出に寄与したこともある。2号機の危機でも3日間奇跡的に原子炉を冷却し続けたRCICは、津波で電源喪失する直前に中央制御室の運転員がとっさの判断で起動させたものだった。
しかしこうした人間の力をはるかに超えた偶然が重なって、2号機は格納容器が決定的に壊れるという事態を免れた。それが事故から10年経って見えてきた「真実」ではないだろうか。
10年遅れるロードマップ
最悪シナリオで示された4号機の燃料プールの水がなくなり、高熱の使用済み核燃料がメルトダウンして、大量の放射性物質が放出されなかったのも偶然のなせるわざだった。
4号機プールの水が干上がらなかったのは、たまたま隣接する原子炉ウェルの仕切り板に隙間ができて、大量の水が流れ込んだおかげだった。4号機が水素爆発し、原子炉建屋最上階が壊れたことで、外からの注水が可能になったことも、まさに怪我の功名だった。
爆発前、3号機の格納容器ベントによって排出された放射性物質が流れ込み、4号機の原子炉建屋には人が立ち入れない状態だった。コンクリート注入用の特殊車両を遠隔操作し、燃料プールに冷却水を注入できたのも4号機の爆発があったからに他ならない。
相次ぐ水素爆発で無残な姿をさらす原子炉建屋。手前は3号機原子炉建屋、奥は4号機原子炉建屋。核燃料プールは破壊されない程度の爆発によって、外部から核燃料プールに冷却水を注入できたのは「怪我の功名」だった。爆発前の4号基原子炉建屋は、3号機の格納容器ベントによって排出された放射性物質が流れ込み、放射線量が高く、運転員が入ることができなかった
SFPは燃料プール、DSピットとは機器貯蔵プールのこと。4号機の燃料プールは、定期検査のため、普段は空っぽの原子炉ウェルと機器貯蔵プールにも水が満たされており、通常の2倍近い貯水量があった
もし、これらの偶然が重なっていなかったら、4号機プールの水位はどんどん低下し、使用済み核燃料がむき出しになる恐れがあった。そうなると最悪シナリオで描かれた恐怖が現実のものになりかねなかったのである。
事故から10年。福島第一原発では、日々廃炉作業が続けられている。最悪シナリオでメルトダウンの恐怖を指摘された4号機の燃料プールには、もう使用済み核燃料の姿はない。
2014年中に取り出しが完了し、3号機の燃料プールからも2021年中に使用済み核燃料が取り出される。取り出しは2号機、1号機と続き、2031年までに5号機、6号機含めすべての使用済み核燃料が取り出されることになっている。
しかし、事故1年後に国と東京電力が掲げた当初のロードマップでは、使用済み核燃料は2021年中にはすべて取り出されることになっていた。実に10年遅れているのである。
相次ぐ水素爆発で無残な姿をさらす原子炉建屋。手前は3号機原子炉建屋、奥は4号機原子炉建屋。核燃料プールは破壊されない程度の爆発によって、外部から核燃料プールに冷却水を注入できたのは「怪我の功名」だった。爆発前の4号基原子炉建屋は、3号機の格納容器ベントによって排出された放射性物質が流れ込み、放射線量が高く、運転員が入ることができなかった
SFPは燃料プール、DSピットとは機器貯蔵プールのこと。4号機の燃料プールは、定期検査のため、普段は空っぽの原子炉ウェルと機器貯蔵プールにも水が満たされており、通常の2倍近い貯水量があった
もし、これらの偶然が重なっていなかったら、4号機プールの水位はどんどん低下し、使用済み核燃料がむき出しになる恐れがあった。そうなると最悪シナリオで描かれた恐怖が現実のものになりかねなかったのである。
事故から10年。福島第一原発では、日々廃炉作業が続けられている。最悪シナリオでメルトダウンの恐怖を指摘された4号機の燃料プールには、もう使用済み核燃料の姿はない。
2014年中に取り出しが完了し、3号機の燃料プールからも2021年中に使用済み核燃料が取り出される。取り出しは2号機、1号機と続き、2031年までに5号機、6号機含めすべての使用済み核燃料が取り出されることになっている。
しかし、事故1年後に国と東京電力が掲げた当初のロードマップでは、使用済み核燃料は2021年中にはすべて取り出されることになっていた。実に10年遅れているのである。
極限の危機において、人間は…
さらに輪をかけて困難なのが推定880トンある核燃料デブリの取り出しである。ロードマップでは、当初2021年にデブリ取り出しを開始し、2031年から2036年には完了すると宣言していた。
しかし、2015年の改定で取り出し完了年の記載は完全に消えた。2019年の改定では、まず2号機でデブリの試験的な取り出しを開始し、イギリスで開発しているロボットアームを使って、格納容器の底にある粉状のデブリを取り出すとされた。
ところが、2020年末、東京電力は、急遽、デブリの取り出しを、1年遅らせると発表。新型コロナウィルスの感染拡大で、イギリスでのロボットアームの開発作業が遅れ、日本への輸送も困難になったためだった。2021年中にデブリ取り出しを始める約束も果たせなくなったのである。
もっとも、デブリを取り出すと言っても、ロボットアームで1回に取り出す量は、わずか1グラム程度。その後、段階的に取り出す量を増やすとしているが、その工程の詳細は決まっていない。1号機と3号機は、2号機の取り出しで得られる知見を踏まえ、取り出し規模を大きくするとしているが、実際に取り出し量を思うように増やせるかは未知数である。
ロードマップでは、廃炉作業は、2041年から2051年には終了することになっているが、福島第一原発を最終的にどのようにするのか、最終形はどこにも記されていない。当初のロードマップに掲げられた机上の計画と廃炉作業の現実を見比べるとき、そのあまりにも大きなズレに暴走した核の後始末が途方もなく難しいことに思えてくる。
あの2号機の極限の危機。核の暴走を食い止めようと、吉田所長らは、爆発や被ばくの恐怖と闘いながら決死の覚悟で現場にとどまり、知恵を絞り出して、原子炉に水を入れ続けた。しかし2号機の格納容器が破壊されなかったのは、肝心なときに水が入らなかったり、格納容器の繫ぎ目の隙間から圧が抜けたりといった幾つかの偶然が重なった公算が強い。
この極限の危機において、人間は核を制御できていなかった。それが「真実」である。
ただし、これは「10年目の真実」だろう。この後、廃炉作業の中で新たな事実が浮かび上がったとき、これまでの事故像が一転して変わるかもしれない。この事故では、当初考えられていた事故像が新たに発見された事実や知見によって、どんでん返しのように変わった例は枚挙に暇がない。
事故から10年を過ぎても事故像は変わり続ける。これから最難関の核燃料デブリの取り出しのために原子炉や格納容器、そしてデブリの詳細を粘り強く調査分析していかなければならない。
そこから見つかる新たな事実や知見は核の暴走の後始末に役立つだけでなく、人間の対応が危機の回避にどこまで貢献していたのかを見極めることにつながる。その一つ一つを丹念に検証すれば、危機の時、そして危機に備えて、人間が何をすべきなのかという未来につながる普遍的な教訓が浮かび上がってくるはずである。
その時こそ、人間は核を制御できるのかという根源的な問いの答えをつかめるのではないだろうか。そのために、私たち取材班は、これからも検証取材を続ける所存である。【現代ismedia】