アナザーノート 大月規義
みなさんは2011年の東京電力福島第一原発事故の後、南に15キロほど離れた場所に「作業員村」があったことを知っているだろうか。
原発事故から4年後、原発事故で廃業したゴルフ場の敷地を作業員村に造り替える計画が進んでいた。今、どうなっているのか。気になって今年12月6日、5年ぶりに足を運んだ。
太平洋に面した福島県楢葉町。幅5~6メートルの鉄格子の門扉。CRESTAGE COUNTRY CLUB――。門柱の脇に伸びた雑草の陰から、ゴルフ場名が刻印された表札がのぞいた。上方には白い監視カメラが設置され、レンズがこちらを向いていた。
ただ、作業員村はすでに閉鎖されていた。
最寄りの家に住む女性に、事情を知らないか尋ねた。
「私たちは原発事故で(隣の)いわき市に避難していたのですが、戻ってきた17年末には、宿舎だったプレハブの部材が大型トラックで運び出されていました。原発の作業員さんは見かけませんでした」
一体何があったのか。取材をさらに進めてみることにした。
カメラ8台で生活監視
当時取材したノートを持参していた。そこには「2015.12.25 クレステージカントリークラブ 山根勉さん」とあった。山根さんとは、作業員村を管理、運営するために設立された一般社団法人「ならはコーポレート」の理事で、取材を受けてくれた人だった。
取材ノートによると、作業員村のオープンは15年11月。場内にはコンテナ型の簡易宿舎があり400人が居住可能な施設で、実際には260人が住んでいた。翌16年には1500人に増え、常設の宿泊用の建物も造る予定とのことだった。
山根さんはこう言っていた。「ゴルフ場のメリットは、出入り口が一つしかないこと。人の出入りが管理しやすい。町役場からの要望で、仕事以外ではなるべく作業員を外に出さないでほしいと。監視カメラは場内に8カ所ありますが、24時間営業のコンビニや居酒屋も検討中で、この中だけで生活が完結するようにします」
作業員を隔離する計画は、そもそも町役場の提案だった。当時の背景をたどる。
作業員村が始まる2年以上も前のこと。原発事故の避難指示について、国と楢葉町は、除染が終わる14年3月以降に解除しようと協議を始めた。長い間、町を離れていた約8千人が久しぶりに故郷へ戻って暮らせる。そのめどを付けようとした。
しかし、町には「先住者」がいた。避難指示下でも特別に町内での寝泊まりが認められていた廃炉や除染の作業員だ。全国から来ていた。
作業員がいないと福島の復興が進まない一方、それを怖がり、帰還をためらう町民が少なくなかった。楢葉の解除はずれ込んだ。2015年に入ると、ゼネコンなどが町内の至る所に建てたプレハブ宿舎などには1千人超が暮らすようになった。
懸念されたのは作業員数だけではなく、町の治安もだった。もちろん多くの作業員はそうではなかったが、一部の作業員によるけんかや暴行事件、車の手荒い運転などが問題になっていた。
松本幸英・楢葉町長は避難指示解除を3カ月後に控えた町議会で、作業員をゴルフ場跡に住ませ、町民と隔離する計画をぶち上げた。作業員と町民の「共存」は無理だと考えての決定だった。
当時、町役場にも取材した。担当していた部署は「新産業創造室」。復興推進の中核を担う部署だった。室長だった磐城恭さんは、町長の考えを代弁し「作業員が多いことを、住民が帰還しない理由にされたくないんです」とも言っていた。
ただ、私は、作業員の扱い方に問題がないのか気になっていた。「治安の問題は片付くが、隔離が作業員の人権侵害や偏見の助長につながりませんか」と質問すると、磐城さんは「そういう意見も当然あると思うのですが……」と、困惑した表情を浮かべた。
実は、原発関係の作業員の増加と住民の帰還の両立に悩んでいた町は、楢葉だけではなかった。南隣の広野町なども同じように、作業員が多くなり、町民の帰還が滞っていた。ただ、1カ所に隔離、集約するという楢葉町の決断は、かなり際立っていた。
6年の予定がたったの7カ月
楢葉町によると、作業員村はオープンの翌16年5月に終了した。当時の山根さんの説明では、町、ならはコーポ、ゴルフ場オーナーの三者協議で「6年は続ける」はずだったが、わずか7カ月で終わったことになる。
なぜ短命だったのか。5年ぶりに磐城さんを電話で取材した。町議会事務局の局長に昇進していた。いまのポストと畑違いの話という前提を踏まえたうえで、あれからどうなったのか知りたいと切り出すと、いくつかヒントを挙げてくれた。
一つは、需要の見誤り。作業員村ができたときは、ゼネコンや建設会社側は独自の宿泊施設を町の内外に造る計画を立て、作業員村にわざわざ頼らなくてもよい環境だった。また、作業員の集約は強制ではなく、町もゼネコンに働きかけなかったため、ならはコーポだけの営業力だけでは集客に限界があった。
さらに、当時の私が受けた印象を改めて思い起こすと、ゴルフ場という整った敷地とはいえ、外出の自由を束縛される環境は作業員に不人気だったのではとも思った。
ただ、短期間でも作業員村が整備されたことがきっかけとなり、町は無秩序な作業員宿舎の建築を防ぐ条例をつくった。町長が建築主に対し住民説明会や計画内容の調整を求めることを可能にした。同じような条例は他の町でも整備され、ゼネコン側も作業員教育を徹底。「かつて問題になった治安も改善しています」と磐城さん。町民の帰還も4千人にまで回復した。
関係者によると、楢葉に住む町外からきた作業員は、現在2千人。作業員村があった当時の倍近くに達している。山根さんが予測していた、作業員の増加は的中した。だが、それをうまく取り込めず、商売にはならなかったということだ。
もっとも、作業員の隔離は失敗でよかったのかもしれない。大規模な「収容所」となれば、町のイメージを損ねていたのではないか。ただし、町民と作業員とが「共生」できるのかという根本的な課題は、これからも続くだろう。
引き続き注目していきたいと、改めて思った。
もっと知ってほしいから
関連ニュースをご紹介します。下記の関連リンク1本目は作業員村が運営されていたころの、原発周辺の暮らしぶりを書いた記事です。2本目は原発事故で営業に支障が出たゴルフ場が東電を訴えた裁判の記事です。3本目は最近の楢葉町のほっこりしたサツマイモの記事です。現地の様子をこれからも伝えていきます。【朝日新聞デジタル】