- 靴下は3重・線量計・全面マスク…厳重な準備で坂上忍が内部を取材
- 原子炉まで20メートルの中央制御室へ…“あの時”は電源喪失で真っ暗に
- 事故処理はいつまで続く?福島第一原発の未来の姿とは
2011年3月11日に発生した東日本大震災。
この時に起きた巨大な津波は、福島第一原発を飲み込んだ。世界最大レベルの原子力事故が起きた福島第一原発。10年目を迎えた今、どうなっているのだろうか。東京電力の全面協力のもと、番組MCの坂上忍が原発内部に潜入した。
いまだ人が住めない街「帰還困難区域」
東京電力から指定された待ち合わせ場所は、福島県富岡町。第一原発から約10キロ離れた場所だ。3年前に避難指示が一部解除されたばかりで、人が住むこと許された場所としては原発に一番近い町だといえる。
東京電力・福島第一廃炉推進カンパニーの阿部賢治さんと合流した坂上は、車に乗り込み、福島第一原発へと向かうが、5分ほど走ったところで見えてきたのが「帰還困難区域」の看板。この先は、9年前から誰も住まなくなった場所だ。
そこには鉄骨がむき出しになった元ゲームセンターなど、震災当時の姿のままの建物が。飲食店の中をのぞくと、お皿やコップなどが残され、食事中に地震に遭い、慌ただしく逃げた、生々しい様子がうかがえる。
一方、変わってしまった場所もあった。9年前は田んぼだったエリアには、雑草だけでなく木が生い茂るほどに荒れていた。
さらに、帰還困難区域では、放射能で汚染された土などを取り除く作業にあたる作業員達の姿も。阿部さんは「少しずつですが、除染も進んでいます。新しい土を入れる天地返しだったり、表面を剥いだり。フレコンバッグ(汚染された土などを入れ保管する袋)という黒い大きな袋に入れて、除染したものをきちんと保管しています」と説明。
住宅街へと進むと、それぞれの家の前にバリケードが立ててあるという衝撃的な光景を目の当たりにして驚く坂上。このバリケードは、人がいなくなった住宅で盗難事件が相次いだため、設置されたものだという。
そんな帰還困難区域にうれしいニュースも。3月14日に、JR常磐線が全面開通し、駅周辺の地域に限って制限が解除され、人が立ち入れるようになった。
原発に入るため厳重な準備
待ち合わせ場所を出発して20分で原発の玄関口に到着。
出迎えてくれたのは、東京電力・福島第一廃炉推進カンパニー広報部門の木元崇宏副所長。事故の後、広報担当として記者会見にあたった人物。
今回のロケで坂上が訪れるのは6ヵ所。水素爆発を起こした原子炉建屋、特別に入ることが許された1号機と2号機の建屋内部などが含まれる。
早速、原発に入るための厳重な準備を行っていくが、3枚もの靴下が用意されていることに驚く坂上。「汚染している場所に入るので、万が一汚染したときに一枚一枚脱げるように、先に3重にはいて、脱ぎながら行きます」と木元さんから説明を受ける。
次に、ホールボディカウンタという機械で体内の放射線を測定。取材を終えた後に、体内に放射性物質を取り込んでいないか確認できるように事前にチェックしておく。
さらに、専用ベスト、被ばく量を測る線量計を持ち、約30分かけてここでの準備が完了した。
福島第一原発では、原発従事者ではない一般人の被ばく量を1日100マイクロシーベルトに制限している。この決められた被ばく量を超えないようにするため、取材中に合計70マイクロシーベルトに達したら速やかにロケを中止し、原発から強制退場されるというルールが課された。
そして、放射線管理区域に入ると、そこにあったのは大量の全面マスク。4種類あり、1ヵ月で約3万個が使われているという。好みの大きさやタイプの全面マスクを選び、ようやく準備が完了した。
汚染水問題の今…
外へ出ると、まず目に入ったのが「さくら通り」と呼ばれる場所。水素爆発が起きた原子炉建屋から約900メートル。毎年春になると400本の桜が咲き、従業員の癒やしスポットになっているという。
今では、敷地内のほとんどで私服や簡単な装備で動けるようになったが、事故直後は完全フル装備の従業員たちが行き来していた。
このように軽装を許されるようになった理由は、フェーシングという対策のおかげ。放射能で汚染された土を取り除き、一面モルタルにした。
木元さんは「もともと全部、土がむき出しでしたが、やはり土埃が舞ってしまった。汚染された土を口の中から取り込んでしまう可能性がある。逆にフェーシングをすると、土埃がなくなりますので、装備がいらなくなった」と話した。
一方、放射能汚染で課題となっているのが、事故後、海へ流れ出るなどして大きな問題となった汚染水。原子炉建屋に入り込み、放射能に汚染された雨や地下水などが増え続けていると問題視されている。
この対策として原子炉建屋を囲むように、土の中に凍土遮水壁や海側遮水壁を設置して、海へ漏れ出ることを防いでいる。
今、汚染水問題はどうなっているのか。
実は、汚染水に含まれる放射性物質の大部分は取り除かれ、“処理水”として敷地の中に保管されている。その量はすでに東京ドーム1杯分、タンクの数は約1000基にもなる。
そのため、かつて敷地内にあったテニスコートや野球場、森だった場所も、今ではほとんどタンク置き場になっていた。だが、木元さんが「タンクを置く場所を作ることが難しくなってきている」と話すように、敷地が処理水のタンクで埋め尽くされるまでのタイムリミットは約2年半しかない。
では、なぜこの場所に溜め続けなければいけないのか。
その理由は、処理水に今の技術では取り除けない「トリチウム」という放射性物質が残っているため。しかし、この「トリチウム」の量は健康被害を及ぼすものではないという専門家もいて、政府は、①基準値以下に薄めて海に流す、②蒸発させて大気に放出するなどの方法を模索しているが、結論は出ていない。
水素爆発した1号機と3号機
続いて向かったのが、水素爆発が起きた原子炉建屋。
事故から10年目。今、どうなっているのか。
1号機と2号機を目の前にした坂上は、「迫力が違う。遠目から見たら小さいけど、目の前にしたらデカい」と驚きを隠せない。
最初に水素爆発を起こした1号機はガレキの撤去が進んでいるとはいえ、当時の面影が残っていた。
一方、当時建屋が壊れてしまった4号機の現在は、大きなカバーが付けられ、核燃料もすべて取り出されている。同じく水素爆発で激しく損壊した3号機は鉄骨が吹き飛び、原形を留めない見るも無惨な姿に。その後、ガレキを取り払い、粉塵が飛び散らないようにドームカバーを設置。今後1号機も同じような対策を施すという。
1号機と2号機の前で放射線量を測定すると、この場所の放射線量は毎時108マイクロシーベルト。ここに1時間滞在するだけで基準の100マイクロシーベルトを超え108マイクロシーベルトに達することになり、ロケが中止になってしまう値だ。
放射線量が高い理由は、ガレキに残された放射線物質がいまなお、放射線を発し続けているから。しかし、ガレキの撤去が少しずつ進んだことで、10年目の今、放射線量はこれでもかなり低くなっているという。
坂上がこの場所にいたのは5分程度。現在の被ばく量は合計10マイクロシーベルト。
巨大津波が直撃した建屋
ここからさらに原子炉建屋に接近していくが、放射性物質を含む粉塵が舞っているため、マスクなどを装着。
移動中、線量計のアラームが鳴り響き、坂上の顔がこわばる。坂上たちが持っている線量計は、20マイクロシーベルトごとに警告音が鳴る設定にしているのだが、原子炉建屋の近くにいるため、数値が上がってきているのだ。
緊迫感が高まる中、原子炉建屋を回り込み海沿いの施設に向かう。
事故直後は放射能で汚染され、近づくことさえできないような場所。海側の施設は津波が直撃したことで鉄骨が曲がるなど、今もはっきりと津波の爪痕が残っていた。
なぜ、この施設が9年経っても手つかずのままなのだろうか。実は、原発の敷地内で出た廃棄物は政府が定めたルールで外への持ち出しが制限されている。建物を解体して生まれた新たなガレキは敷地内で保管場所を確保しなければならないのだが、新たなスペースを作るのも難しいため、そのままになっているという。
使用済みの手袋やマスク、軍手なども敷地の外には持ち出せない。このように、たまり続けるごみも大きな課題で、増えれば増えるだけ、保管する場所を確保しなければならないのだ。
原子炉まで20メートル…中央制御室へ
坂上は、つなぎの防護服に全面マスク、布手袋の上にゴム袋2枚を追加するという重装備に。この出で立ちは“Y装備”と呼ばれている。福島第一原発の敷地内は、汚染の度合いによってエリア分けされ、それぞれ装備が決まっているのだ。
こうして向かった先は、1号機と2号機の建物の中。この時すでに線量計から2回目の警告音が鳴っていた。ロケ開始から約4時間で、被ばく量は40マイクロシーベルトに達したことになる。
1階と地下は津波で水没したため、臨時で引かれた電源ケーブルもそのままに。津波の被害に遭わなかった2階は、汚染を拡大させないためのピンクのシートに覆われていた。
坂上が「地震が来たときは、ここから避難したんですか?」と聞くと、木元さんは「いえ。当直員はずっとここに留まりました。事故後は当然、食料も限られていたので、水もかなり少なかったと聞いています」と語る。
木元さんに案内されて着いた場所は、メルトダウンした1号機と2号機の原子炉から約20メートルの距離にある中央制御室。24時間体制で原子力発電所の安全を支えていた心臓部だ。この場所でコントロールできなければ、原子炉は制御できずに暴走してしまう。事故当時は、まさにこの場所が原子炉と戦う最前線となった。
電源喪失で真っ暗…“あの時”の中央制御室は
2011年3月11日に地震が発生し、原発を襲った巨大な津波が、施設をのみ込んでいった。大量の海水は地下にあった非常用の電源盤などを水没させ、全電源が喪失。2階にあった中央制御室は、津波の被害は免れたものの、前代未聞の事態が起きていた。
電源が喪失したことで真っ暗な中での作業。深刻だったのは電気だけではない。「電気がなくなったため計器も動かず、一時状況が分からなくなりました」と木元さんは当時を振り返る。
中央制御室で当時の様子を再現
絶望的な状況の中、当直員は奇跡的に動いていたメーターを発見。その横には当時のメモ書きが残されていた。しかし、原子炉では核燃料を冷やすための水がどんどん蒸発し続け、ついに恐れていたメルトダウンが発生。核燃料が溶け落ちてしまったのだ。
地震から25時間後に1号機、その後3号機も水素爆発を起こした。しかしこの時、爆発していなかった2号機こそが最も危機的な状況だったという。
1号機と3号機は爆発で建屋が壊れたものの、格納容器には大きな破損がなかった。だが、2号機は核燃料の入った格納容器の圧力が異常に高まり大爆発の危機が迫っていた。一瞬の油断も許されない状況に陥っていたのだ。
この時ささやかれていたのは“東日本壊滅”という言葉。放射能がまき散らされ、東日本に人が住めなくなる事態を防ぐため、当直員は決死の覚悟で原子炉に立ち向かい、命がけの復旧作業を続けた。
「当然、この中央制御室だけではなくて、現場も真っ暗です。暗い中で原子炉に行けるのは、一番知っている当直員だけ。原子炉へ行って状況を見て、帰ってきて報告して次の手を打つ…という繰り返しでした。当直員は“自分たちでやらなければいけない”という思いがある反面、できることが限られていた。相当、厳しかったですよね。もう、生きた心地がしなかったでしょうね」(木元さん)
福島第一原発の未来の姿とは
福島第一原発の事故から10年目、こうした事故処理はいつまで続くのだろうか。
最後に坂上が向かったのは、特別に取材が許された共用プール。原発で使い終わった核燃料棒が保管されている。事故で使えなくなった核燃料棒も、安全に保管するためにはすべてこの場所に移さなければならない。
昨年から3号機の燃料棒の取り出し作業が始まったばかりなのだが、現在残りは1500本以上。すべて移し終わるには、あと10年かかるという。
しかし、全く終わりの見えない作業もあった。それは、1号機から3号機に残る、溶け落ちた燃料棒、燃料デブリの取り出し。10年目の今も、格納容器には放射線量が高すぎて人が入れないため、ロボットを使った調査が続けられてきた。
「初めてのことがたくさんあります。それに応じた遠隔技術も必要。被ばくの可能性があれば人間を守らなければならない。日々、試行錯誤でやっている部分もあります」(木元さん)
この言葉に坂上は「急ぐに越したことはないですけど、優先順位が違いますもんね。安全第一ですから」と話した。
2019年2月には、2号機格納容器に残されたデブリに接触することに初めて成功。実際、燃料デブリの取り出しがスタートするのは2021年からだ。
こうした廃炉作業がすべて終わるのは約20年から30年後とされている。しかし、その時に福島第一原発がどのような姿になっているのか、政府のロードマップに具体的なことは書かれていない。
坂上が「永遠の作業じゃないですか…」と木元さんに問うと「残っている建物や土地をどうするか、我々だけでは決められないと思います。今の段階では“こういう姿”というのは描けていませんが、これからこの地に住んでいる方々や関係者の方々と一緒に議論しながら決めていきたいと思います」と話した。
(「直撃!シンソウ坂上」毎週木曜 夜9:00~9:54)【FNN】