「変わり者」「偏向している」…
死刑宣告に悩んだかと思えば、原発再稼働の可否を決定し、さらに「一票の格差」の判断まで下す。それが裁判官の「重責」だ。彼らの生身の感情とは何だろうか? 徹底的に掘り下げた本が話題だ。発売中の『週刊現代』が特集する。
2人の裁判長の命運
原発の運転禁止と稼働容認の異なる決定が、先月、広島高裁と大阪高裁で相次いで言い渡された。
広島高裁の森一岳裁判長は、1月17日、四国電力の伊方原発3号機への運転禁止を言い渡した。かたや大阪高裁の山下郁夫裁判長は、同30日、住民側の運転差し止め申請を却下。関西電力大飯原発3、4号機の稼働を容認した。
ふたつの決定は、原発の安全技術や設備、地震リスクなどへの裁判長の評価の違いによるものだが、審理にあたって、どの判断枠組みを使ったかの違いでもある。
森裁判長は、原発の安全性を裁判官が独自に審査して運転禁止を言い渡したのに対し、山下裁判長は福島第一原発の事故後、最高裁が示した原発訴訟の事実上の「ガイドライン」を用いて稼働を容認した。
この違いについて、自らも原発訴訟を担当したことのある元裁判官は、こう解説する。
「民事訴訟の基本原則からすると、訴えを起こした側が原発の危険性を証明する必要がある。しかし住民側が、膨大なデータを保有する電力会社と争い、その危険性を証明するのは困難を極めます。
そこで森裁判長は、電力会社側に対し、原発が安全であり運転しても何ら問題ないことを立証させる『立証責任の転換』と呼ばれる審理方針を採用したのです」
同元裁判官の話が続く。
「これに対し山下裁判長は、行政側の安全審査基準が正当かどうか、その審査過程で大きな手続き上の欠落がないかを見極める判断枠組みを使っている。
専門知識を持たない裁判官が、原発の安全性を見極めるのは難しいことから、安全性の独自審査には自制的であるべきとした最高裁方針に従ったものです」
過去の原発訴訟を見てみても、どちらの判断枠組みを裁判長が採用したかで、運転禁止か稼働容認かの判断が導かれていることがわかる。同時に、不思議な法則性があることにも気づかされる。
前者の判断枠組みを採用して運転禁止を言い渡した裁判長は、裁判実務一筋に歩んできた人が多いのに対し、後者を使って稼働を容認した審理は、最高裁事務総局に勤務経験のあるエリート裁判官によるものがほとんどと言っていい。
実際、運転禁止の森裁判長は、大阪地裁を振り出しに岡山地裁、東京高裁などで裁判実務を積み重ね、「事実をどう捉え、どう評価するかの判断センスに優れた裁判官」と言われている。
稼働容認の山下裁判長は、任官7年目で最高裁事務総局に「局付判事補」として勤務し、さらにその後「最高裁調査官」を務めたトップエリートである。
一般論として原発の稼働容認は、電力会社を支持基盤とする与党や、原子力発電を「重要なベースロード電源」と位置付ける政府方針と一致する。
それだけに稼働を認めた裁判長には、やがて裁判所内での望ましい処遇が巡ってくると言われている。
原発を停めた「変わり者」
では、原発を停めた裁判官には、どんな組織の返礼が待っているのか。
日本の裁判史上、はじめて稼働中の原発を停めたのは、金沢地裁の裁判長だった井戸謙一氏だ。2006年3月、北陸電力の志賀原発2号機を運転禁止とした。福島第一原発が過酷事故を起こす5年前のことである。
当時を振り返りながら、井戸氏は淡々と語った。
「あの時点で僕は、原発がなかったら日本の社会は成り立たないと思ってましたし、原発訴訟は住民側の全敗でしたから、まあ、同じような判決を書くんだろうなぐらいのイメージだった。
でも、いろいろ審理していくと、電力会社の姿勢に危惧される面があった。さすがにこれだけ危険なものを扱うのに、この姿勢ではダメだろう。
やる以上は、もっと耐震性を高めてから稼働させるべきというのが、あの判決の趣旨なんです」
そしてこう続けた。
「審理方針は、住民側の疑問に対し、電力会社側に安全であることを立証してもらい、それが出来ないかぎり原発を停止させるというものでした」
「立証責任の転換」という判断枠組みは、井戸氏によって原発訴訟に導入されていたのだ。
しかし、政府方針に逆らった井戸氏には、その後、「変わり者の裁判官」というレッテルが貼られることになる。
金沢地裁から京都地裁に異動した時には、同僚の部総括(裁判長)から「どんな人が来るのかと思っていたら、けっこう普通の人でした」と言われたという。
またその後、大阪高裁のある部総括からは、こんな内緒話を聞かされた。
「あなたについては、高裁の事務局から、変わり者の裁判官なので、ご苦労されるかもしれないと言われていた」と―。
要するに原発を停めると裁判所内で孤立させられ、同僚から白眼視され、有形無形の「追い出し圧力」に晒されることになるわけだ。
現職のベテラン裁判長も、こう言った。
「だから、良心に従って原発を停められるのは、定年退官か依願退官かは別にして裁判官を辞めると決めた時なんです。でないと原発を停めた途端、裁判所での居場所をなくしてしまいますから」
伊方原発3号機を停めた森裁判長もまた、1月末で定年退官した。
義務教育で教わる三権分立のトライアングルにおいて、裁判所の機能と役割は、立法府と行政府の権力の乱用を牽制し、国民の基本的人権を守り、その自由を擁護することにある。
そのため「裁判官の独立」が憲法に謳われている。だが現実の裁判所は、国民の側に立つことよりも国の統治権行使の一機関として、公権力の利益を優先する傾向にあると言っていい。
評価を落としたくない
第11代最高裁長官を務めた矢口洪一氏も、自身の「オーラル・ヒストリー」の中で国家と裁判所の関係について、こう述べている。
「三権分立は、立法・司法・行政ではなくて、立法・裁判・行政なんです。司法は、行政の一部ということです」
裁判部門は独立していても、全国の裁判所を統轄し、裁判官を人事管理する最高裁の司法行政部門は「行政の一部」として、政府と協調関係にある。また、そうでなければ、国を安定的に運営していけないと言っているのである。
一皮むけば、さまざまな矛盾を抱え持つ「裁判官村」という閉ざされた世界のなかで、裁判官たちは、いったいどんな思いで日々の法廷に臨んでいるのか。そして裁判所はどのような組織風土と論理のもと運営されているものなのか―。
私は、足かけ4年にわたり、のべ100人を超える現職裁判官や元裁判官を全国に訪ね歩き、このたび『裁判官も人である 良心と組織の狭間で』(講談社刊)を上梓した。
そこから見えてきた裁判官たちの日常は、一般のサラリーマンや行政官僚とさして変わらない厳しい管理下に置かれ、窮屈な職場で多忙を極めているという姿だった。
ベテラン裁判官のひとりは、忸怩たる思いを嚙みしめるように語った。
「裁判所というところは、恐ろしく保守的で、誰彼かまわず足を引っ張るのに長けた組織なんです。
若手裁判官に限らず、ベテラン裁判官であっても、上司である部総括に向かってあれこれ意見を言ったりすると、うるさい奴だとか協調性がないといってマイナス評価されてしまう。それを怖れるあまり、皆、萎縮してしまっている」
幼稚園の頃からとびきりよくできると誉めそやされ、優等生として走り続けてきた彼らは挫折を知らず、下積み経験もない。プライドは高く、世俗的な欲望とも無縁ではない。
「だから大半の裁判官は上目づかいで上司に嫌われないよう、無難な判決を書くわけです」
こう前置きして、裁判官の心理を解説してくれたのは元民事裁判官だ。
「われわれは、普通、20代半ばで裁判官になって定年まで勤めるので、約40年という時間を裁判所という閉鎖された社会で過ごすわけです。
その社会の中で生きていくわけだから、順調に昇進し、気持ちよく仕事をしたい。
原発訴訟に限らず、住民訴訟で国を負けさせたりすると、偏向していると批判され、挙げ句、同期より処遇で遅れるというのはさすがに辛い。
しかも遠くの裁判所に飛ばされるかもしれない。家族を連れていけないとなると、単身赴任なわけですから、それはかなわんわけです」
憲法で保障されているはずの「裁判官の独立」は、外部からの干渉には強くても、内部を支配する組織の論理の前では、ほとんど意味をなしていないと言えそうだ。彼らもまた、弱さを抱え持つ生身の人間なのである。
刑事裁判官が判決文を起案する際、胸中に去来するのは、正義の実践をなしえたかといった自問ではなく、上級審でひっくり返され、人事評価が落ちることへの不安だという。
元東京高裁刑事部の裁判長は、そんな刑事裁判官の行動原理についてこう語った。
「無罪判決を書いて検察官と対立するよりは、無罪が確実なのであれば、この先の上級審で無罪にしてくれるだろうから、とりあえず有罪にしておこう。そうすれば(検察側に)控訴されることもない。
検察官に控訴されると、7割の確率で一審判決が破棄されるため、検察官の主張を無批判に受け入れがちになるのです」
一般に真実探求の場であると考えられている裁判所と、裁判所の実態では大きな隔たりがあるのである。
今年1月16日に行われた新人判事補の辞令交付式で、最高裁の大谷直人長官は、人を裁くことへの「畏れと危うさの感覚を持ち、畏れの自覚を判断の中に反映させることが重要だ」と訓示した。
しかし裁判所の現状は、司法行政による締め付けによって「畏れと危うさの感覚」を多くの裁判官から奪い取っている。その改善に取り組むことなく、抽象的理念を説いても意味をなさないはずだ。
いま一度、すべての裁判官は、人が人を裁くことの特別の責務と、自らの裁く姿勢を見直す必要があろう。裁く者も、やがて国民の道義的信頼と歴史によって裁かれるからである。
発売中の『週刊現代』ではこのほかにも、民事裁判での事例や、定年退官が近づいた裁判官の声などを紹介しながら、特集『裁判官も人である』を掲載している。
「週刊現代」2020年2月15日号より