東京・六本木にある原子力規制委員会。昨年12月、東京電力で原発を担う「原子力・立地本部」の増井秀企・副本部長に対し、山形浩史・緊急事態対策監はこう詰問した。
「社長は刑事でも民事でも、責任をとらないということですか」
東電は原発事業について、社長が持つ予算や体制づくりの権限を原発事業トップに渡す「社内カンパニー制」を適用したいと規制委に申請していた。「意思決定を速くする」のを理由にした。
かつて、東電の原発事業は原子力・立地本部の本部長がトップを担ってきた。それが2011年の福島第一原発の事故後、責任の所在のあいまいさをうんでいたと問題視され、社長直属に変わった経緯がある。
事故前に戻るような東電の動きに、規制委側は再び責任の所在がぼやけると懸念を強めた。その2カ月前、強制起訴公判の被告人質問で、旧経営陣が「責任逃れ」を繰り返していたことが背景にあった。
東電は新制度での責任の取り方を「ケース・バイ・ケース」とあいまいな回答を続けた。結局、受け入れられず申請を取り下げた。
原子力・立地本部の本部長は、19日に東京地裁で無罪が言い渡された武黒一郎氏(73)、武藤栄氏(69)も務めた役職だ。事故前から、技術系の副社長級が兼務するポストだった。
同本部の社員は全社の1割ほどだが、社内の「聖域」となっていた。火力や水力、送電事業にかかわる一般的な土木や建設、設備などの部門とは別に、「原子力土木」や「原子力設備」といった自前の部門を有した。東電関係者は「放射能を扱い、高度な地元対策も必要だったので厚遇されたが、他部門から口出しされない閉鎖性も生まれた」と説明する。
経団連会長も務めた平岩外四氏が社長(76~84年)のころから、「社内の幹部で原子力本部長だけが、社長とサシ(一対一)で会える特権が与えられるようになった」(元東電幹部)。
02年夏、原発のトラブル隠し問題が発覚すると、南直哉社長らが一斉に退陣し、勝俣恒久氏(79)が社長に就いた。勝俣氏は「(不正を)しない風土」や「言い出す仕組み」を掲げ、主に原子力本部の閉鎖性の解消を試みた。
だが、改革は進まず、07年に原発の新たなデータ改ざんが発覚した。頭の回転や判断力の速さから「カミソリ経営者」と言われた勝俣氏も、原子力本部に神経を使うようになった。
「またかあー」。担当役員から不祥事の報告を受けた勝俣氏は、甲高い声であえて明るく振る舞ったという。元側近は「不祥事のたびに厳しく当たっていると、余計に情報が上がらなくなると気にしていた」と証言する。
09年2月に「14メートルの津波が来る可能性」を示したリスク情報を知っても、「必要なら本部からいずれ検討結果がくる」と待ちの姿勢を貫いた。だが、その前に事故は起きた。
組織としての責任はなかったのか。判決は一切触れず、逆に「安全確保に必要な対応を進めていた」と持ち上げた。事故後も問題が相次ぐ東電に、何の教訓も与えなかった。【朝日新聞】